南海忠烈祠 - 南海 第2景

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1598年、丁酉再乱(慶長の役)最後の戦闘であった露梁海戦において、倭俗と戦う途中で壮烈に殉国した忠武公・李舜臣将軍の業績を賛えるため、雪川面(ソルチョンミョン)露梁里(ノリャンリ)に建てられた霊廟だ。

観音浦 李忠武公 戦没遺墟 - 南海 第5景

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観音浦近海の海岸に位置するこの場所は、李忠武公の霊柩が初めて陸地に安置された所だ。公が殉国してから234年後の1832年(純祖32)、公の8代子孫・李恒権(イ・ハンゴン)が王名により祭壇を設け祭祀を行い、碑と碑閣を建てて李落祠(イラクサ)と称した。 李舜臣映像館は、138席の観覧席を備えた国内初のドーム型立体映像館を中心に、忠武公・李舜臣将軍の精神と壬辰倭乱の歴史に関する展示室が設けられている。

亀甲船

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露梁にある亀甲船は、韓国海軍が忠武公・李舜臣将軍の精神を継承するため、李忠武公全書と過去の船舶関連記録を参考に鷺山(ノサン)・李殷相(イ・ウンサン)など学界専門家16名の考証を受けて1980年1月31日に実物大で復元したものである。

八萬大蔵経板刻推定地

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観音浦湾・大寺里(デサリ)近隣の世界文化遺産である八万大蔵経板刻地と推定される所だ。宗鏡録券28巻の最後の‘高麗国分司南海大蔵都監開板’という記録と試掘調査結果、当時の彫刻刀を磨いだ砥石と瓦青磁片などの遺物がこれを証明している。.

大局山城

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現在最もよく復元されている城であり、県城(県を守る城)だった城山城から東北方向に雪川と古県の境界地点の海抜376mの大局山に位置している。三国時代に築城されたものと推定され、県城の外郭城としての役割を成したと見られる。(道記念物第19号)

南海の城e

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南海には計21の城が築造された。文献上明らかになった城のうち10基は朝鮮時代に建てられたことが確かとされており、残りは高麗時代や新羅時代のものとみられる。現在復元されて昔の面影を残す所は大国山城と壬辰城だけである。 水軍が駐留した城としては彌助鎮城(ミジョジンソン)、赤梁城(チョンニャンソン)、平山城(ピョンサンソン)程で、尚州浦堡(サンジュポボ)と曲浦堡(コクポボ)も官房上の役割を果たした。 現在の郡庁の塀を成す南海邑城(ナムへウプソン)はほとんど毀損された。

張良相東征磨崖碑

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露梁海戦が終わった後、船所倭城に残る倭軍を攻めるため出陣した明国の将帥・張良相(チャン・リャンサン)が詠み刻んだという張良相東征磨崖碑(道有形文化祭第27号)

南海尚州石刻

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中国秦始皇の侍従である徐福(ソ・ブル)が不老草を手に入れようと南海・錦山に来て刻んで行ったという伝説があるソンジュリ石刻(道記念物第6号)

南海茶丁里 支石墓

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南海には青銅器時代の代表的遺物の支石墓が100基以上散在している。そのうち最も代表的なのが茶丁里支石墓11基だ。茶丁支石墓からは無紋土器片、馬蹄石剣などが発見された。(道記念物第62号)

南海郷校

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山麓に位置する。龍門寺は新羅時代に元暁大師が錦山を訪ねて建てたという普光寺の後身と伝えられている。

加人海岸 恐竜化石

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昌善面加人里の北海岸に位置し、咸安(ハマン)層の最上部に該当する。岩質は細粒質砂岩で暗灰色を帯びている。地層の走向は概略南丘向きで、傾斜は東側(海側)に約30度傾いている。1996年の発見および発表の際、翼龍の足跡と発表したものがあったが、その後関連学者らと数度にわたり討議した結果、新種の獣脚類だという暫定的な結論に到達している種である。 (天然記念物第499号)